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ロリポップ!
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<179話・ストーリー>
あかねの師匠志ぐまは失声症に罹っていた。
その思いを胸に秘めて高座に上がるあかね。
お客はからしとひかるのあとは消化試合だと思っていたが、登場したあかねのかを見て気圧されてしまう。
終わり。
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<175話・ストーリー>
おかま師匠はあかねが一生に瑞雲大賞で笑わせずに優勝しろという指令を聞いていた。
それを思い出し、どのような答が出るのかを胸に落語を見る。
ここでメタ的な視点をしてしまうが、まさかの落語全遠しという演出をしてしまう。
ここで乾いた笑いが起きてしまうが、からしはこれを客が笑ったとはみなさなかった。
あかねはそこでの笑いをそもそも狙っていないのだ。
おかま師匠が解説する。
「笑いどころ、泣き所、噺の筋が際立つように演者は様々な味付けをする。だが手をかえんとするその噺は時代を超え愛された逸品。」
「ありのままで魅せろ。古典は手を加えずとも客が笑うように出来ている。演者の作為で笑わせようとするな。」
「それが一生の真意であり、指南。」
「至れるかな?その境地に」
という有難い解説をしてくれる。
・素晴らしい解説だが、欠点が一つ。
古典は手を加えないと客が笑うようにはできていない――というのが正しい。
なぜならそもそも落語はつまらないからだ。
終わり。
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<176話・ストーリー>
あかねは「見」という意味を真に理解した。
あかねが見ているのはお客一人一人…をさらに俯瞰した、自信を含めた会場全体であった。
観客を噺により深く誘うために、あかねが魅せたいモノとお客さんが見たいモノのズレを、視野を広げて自信を俯瞰することで、嚙合わせるという理屈だ。
つまり見とは、観世能でいう離見の見という事であったのだ。
お客はあかねを見ているというより、江戸時代のおかしな登場人物をその場で見ているような感覚になり、おかしいやり取りを見て笑っている状態になる。
噺1つで、現代のお笑い芸人のコントをリアルに見せている様な感じだろう。
終わり。------------------------------
<177話・ストーリー>
演者が消えるほどの噺をするあかねを見て、ひかるが
「異質な雰囲気。演者が霞むほど噺が際立つ語り口。可楽杯で見せた消える高座!!」
「帰って来た。私を完膚なきまでに打ちのめした、圧倒的な阿良川あかねが―!!」と喜び打ち震える。
からしも、この消える高座を見て、状況を分析する。
「笑わせない。演者の画をそぎ落とすことで噺に深く入り込める。それが消える高座の『正体』…!」
「―だがそれだけじゃあこの客席の空気を説明できねえ。おそらく同じじゃあねえ。可楽杯ん時から進化してやがる!!」
「じゃあ何がっ…どう変わってこうなった!?」
「全然っ分かんねえ」
あかねの演じる姿をおかま師匠が驚き、一生が不敵に笑う。
終わり。
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<178話・ストーリー>
あかねの圧倒的な話術は観客も飲み込まれる。
審査員の証明も認めた様だ。
終わり。
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<感想・分析>
まあ、落語をドラゴンボールでやる感じだね。
落語の理想の境地を見事に描いた数話だと言えよう。
問題は、この理想の境地が現実では存在しないという事である。
何故なら落語を見てきたこれまで多くの人は、この話に埋没する感覚を一度も味わっていないからだ。
「それは本当の名人の落語を見ていないからだ」と反論する者もいるかもしれないが、名人でなければ再現できない境地ならば、それは落語の特徴ではない。
特徴とはその対象に通底して現れる見て分かるモノだからだ。
話芸の理想の境地を言うのは良いが、これを落語が実現しているとはとても思えない。
むしろ、現代の漫才やトリオの方が客を埋没させるという意味においてはその境地に至っているのでは?
いずれにしても、落語を描いた漫画は傑作だが、落語に笑いとしての未来はない。↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
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